工学などにおいて作られる、ある一定のたゆみ、ゆるみ、余白のことを「遊び」というが・・・
このように命名した人は天才だと思う。
なんて事を最近よく考えるようになっていた。
とことん真面目に仕事をやろう・・・
などというガラにもないことを深く考えるほど、この「遊び」が重要だと思えてくる。
真面目な人ほど「遊び」がない・・・
「遊び」がないと「融通が利かない」のだと思う。
例えば、大好きだった桂枝雀師匠
彼は、とんでもなく真面目だったと聞く。
「笑い」を分析し、自身の確固たるもちネタ数があり・・・
とても一筋だった方と聞いている。
噺を聞いているこちらはとても面白かった。
しかし彼の最期を思い返すと残念でならない・・・そんなに真面目じゃなくても良かったのでないか?と思う。
医者にしてもそうだろう。
「俺は医学の道にすべてを捧げて人を治すんだ!」「医学を究めるんだ」
なんて学生の頃から言ってるやつは正直に気色悪いし、こういう奴らは友達もいない、要するに嫌われているものが多かったりする。
遊びがないと脆いのだろう、固すぎて粘りが無い。
これ以上は膨らまない、触ればはち切れる風船のようなものなのだ。
例えば、手術中の外科医・・・
手術に一杯一杯になる人には手術して欲しいとは思わない。
むしろオペしながら
「今日の晩御飯はどうするかな~」
などと考えられる人の方が安心だ。
人には「遊び」が必要でそれにより生まれる「ゆとり」こそがギリギリの判断を迫られる時に、ものをいうのだろうな~
などと最近しみじみ考えていた。
そしてこの間の太極拳合宿
相手を上に持ち上げる型があるが、それをやった時・・・
腕は上に持ち上げているが、重心は下に落とすように治された。
するとどうだろう
身体の中に「遊び」の部分が生まれ、今まで無かった力が出るのがわかった。
すべての道は一つに通ずる、なんて言葉を思い出したりした。
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