善人なおもって往生す、いわんや悪人をや
歎異抄の一文である。
これを読んで、「日本には悪人の方が救われる宗教がある」
等と勘違いした外人がいたとか、
いや、それだけならまだいい・・・・
日本人でさえ、さっぱり判っていないことに対して憤りを覚える。
もともとこの「歎異抄」は年月が経って親鸞聖人の教えと異なること嘆いて書かれたものであるが、それすらも異なって教えられていてはしょうがない。
しかも、それらしく理由をつけて曲解したものを偉そうに説明するのを聞かされてつくづくイヤになったことは1度ではない。
まあ、何が原因かといえば
「悪」とは何か? これを正しく判っていない人が大半であるがゆえであろう。
善⇔悪
と、単純に考えて勘違いしてはいけない。悪=bad では決してないのだ。
それを証拠に「悪」を讃える言葉として使う場合がある。
源頼朝の兄の源義平、彼の強さは他に類を見ず 人は彼を「悪源太義平」と呼んでいたことは誰もが知る事であり、ほめ言葉であることくらいは判っている筈だ。
では「悪」とは何であろう?
難しく考えないで漢字で考えればいい
「亜」の「心」
亜とは「亜種」や「亜流」という使い方がされる字である。
ようするに、本道から外れている・・・・ということだ。
その社会の常識から外れれば、良し悪し関係なく「亜」「悪」なわけである。
ようするに悪源太義平は「桁違いの強さ」だったわけか。
では歎異抄のこの場合は?
「善人」とは自力で往生しようとする人(自力教)
「悪人」は他力(御仏の力)で往生しようとする人(他力教)
なわけである。
他力本願は、後から出来た宗教なワケだし・・・当時は主流が自力教
他力教は亜流だったのだろう。
つまり、主流の人=善人 亜流の人=悪人 というわけだ。
この二つは、やり方は違えど
目指すものはおなじものである。 であるから善人⇔悪人ではない。
これを念頭に置き 冒頭の文章を訳すと
「自力で往生するくらいだから御仏の力を借りる者がより往生するのは言うまでもない。」
となる。
こう考えれば最初の文章は誰でもわかる簡単なハナシだ
これを判らずに歎異抄を一知半解するのは大間違いなのである。
なんか今回は「自称インテリ(笑う所)」に恥じない内容になったか?
高校の歴史の時間
そうです
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