昨日書いた小澤征爾の2002年のキャラバン・・・
最後に行ったのは横手市だと言う、つくづく縁があった筈・・・な感じである。
知らなかったのが心の底から残念ですよ梅杉さん。
横手のナンとか言う寺で演奏していた。
夏に冷房も無いし、外にまで人がいっぱい・・・
さぞ暑かったことだろうし、後ろの人はセミの声が邪魔だったのではないか?
だいたいヨーロッパはセミがあんまりいないから、夏でも音楽やろうって気になるんじゃないかな?
幕末に日本に来た異人が、「なぜ木が鳴くのか?」と不思議がったというし。
だが、その寺に来ていた方々の演奏会が終わって帰るその顔の印象的なことが忘れられない。この上ない満足を味わっていたようで、涙ぐんでいる方までおられた。
お寺でやったことも影響しているのだろうか?
お客さんの一人が、「指揮をしている小澤さんの手が、まるで千手観音のようだった」と言っておられる。
更に、ロストロポーヴィッチのことは「まるでお坊さんのような」と表現されておられた。
要するに、その演奏になにか神がかり的なものを感じておられたのではないかと察するところである。
もともと「音楽」とは、天文学や幾何学と並び、神の創った世界を解き明かす学問だったと言う。「音学」って訳したほうが良かったのではないだろうか?
件の演奏会を聞きに来られた方は、その真髄を目の当たりにしたような気分だったのだろう。
また、お寺でやったのが良かったのかもしれない。
「阿弥陀」とは時間と空間の制約を受けない仏の世界、これは宇宙の根源である、と教わったことがある。
神こそ違えど、この世界を構築する根本に近付くという意味では共通している事なのではないだろうか?
実は、太極拳もその動作に宇宙を表していると言う。
その動きは地球の力、宇宙の力を借りる動作であるといい、宇宙と一体になるとかなんかそんな・・・まあ、習っている時に「コレが地球の」「宇宙の」
なんてことは言わないが・・・
しかしながら、私の師匠 及川重道先生はその師匠 陳小旺先生のことを「宇宙的なスケールを感じる方」と仰っている。
宗教、音学、武術・・・
その手法は違えど、どれも最終的には宇宙と一体となる
それを目指しているものなのかもしれないな~と考えてみる。
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