今日から3,4回にわたって酒のハナシです。
興味ない方はすみません、酒以外のハナシは木曜以降になりそうです。
私がこんなに酒好きになるとは、身近な人達(家族)は思っていなかっただろう。父は酒に強くない、昔は缶ビール1本も空けなかったような人だ。
祖父もそんなに飲んでいた記憶はない。
しかし、親戚には大酒のみが多かった。
親父の兄弟はまるで酒が飲めないが、爺さんの兄弟は酒豪がいた。
隣の市、
ちなみに酒を持っていくと今でも喜ぶ
「おっオヮの大好物を持ってきたか」と
もう一人がその方の弟に当たる。
その伯父さんと最後にしたのが酒の話だ。その伯父さんとは大学が同じである。
帰りの電車のハナシになったときに、食堂車で酒を飲んでいた話になった。
とても楽しそうに話しておられた。
この伯父さんは一人で2升空けたとか・・・スゲェ。
上記の二人が実家で最後に酒を飲んだ時だったろうか・・・我が家ではこんな会話がされた。
「あら~2升空かんかったわ」
2人で1升以上空ければ充分じゃないだろうか?
そして、会ったことはないが私の曽祖父はものすごい酒飲みだったらしい。
なんでも戦争中に 例によって消毒用アルコールを飲んで中ってしまったとか。
そして、その曽祖父がつくったと言われる地下が今尚実家にある。
なんでも密造酒を造ったとか言われているが。
現在はその地下室は、私と親父の酒蔵として利用されている。
親父は飲めなかったが嫌いではなかった、友人に酒好きな脳外科医がいて、その人の薦めで飲んでいた酒がある。ドイツワインだった
わたしは高校の頃によく、それをくすねて飲んだ。
酒に弱い親父はワイン1本は空けることが出来ない、飲み残しは冷蔵庫に保管されている。よくそれをこっそり飲んだ。
こんな言葉がある
「酒を飲む楽しみの半分は禁酒令を破ることにある」
こっそり飲むあの寒露なドイツワインの美味いこと・・・忘れられない。
私の酒の初めての感動であった。
そして大学に入学・・・コンパでよく飲んだが、酒が美味い・・・とは思わなかった。 特にはじめて連れて行かれたスナックのうるさいことと、酒の不味い事・・・ウィスキーが嫌いになりそうだった。
しかし、ある日 ある教授のお宅に訪問した時にウィスキーがでた。
「あ~あウィスキーか」内心そう思った。
教授はおっしゃった。
「キミたちには美味しい酒の飲み方を憶えてもらいたい」
そこで飲んだウィスキーはシーバスリーガル
違う!
今まで飲まされていた物とは別のものだ。
ウィスキーとはこんなに美味いものだったのか・・・・・
目から・・・いやこの場合舌から うろこが落ちた気分だった
あの吉田茂が愛飲したウィスキーであることを後から知った。
酒は美味いものである
知らなければ良かったのかもしれないが、知ってしまったのだからしょうがない、学生時代は皆でワイワイ飲むことも多かったが 人知れず色々酒を研究した。ボジョレーヌーボーは‘93年の物まで飲んでいる(これにどのような意味があるかは今年の11月くらいに書く。憶えてれば)
なぜ、人知れずだったか・・・私のようなものはごく少数派に過ぎないのだ。
学生は酒などアルコールが入っていればよい・・・というような飲み方をする。
そんな飲み方も悪くはない、クラブをやっていた私は後輩たちを部屋に招いて酒を振舞い、そんな飲み方をした。
しかし、それだけでは物足りない。私のような人種は理解者を求める、そして出会ったヤツらが居た。
現在、小樽でロール歯科を開業中の同級生サー・尚吾先生 千葉で開業中のアッキー・山先生だ。
アッキー先生は実家にある酒をこっそりとくすねてきてくれた。
「なあ、この酒全部で一万円でどうだ?」
一万は高いだろう、よっぽどじゃない限りイヤだ。
そう思いながらも聞いてみる
「どんな酒?」
気に食わなかったら難癖つけて買わないことにしようと思っていたが・・
なんと、レミーマルタン、カミュ、ヘネシーのXO、ローヤルサルートをはじめとした、20年近いウィスキー、知らないながらもよさげなモノがズラリだ。
思わず彼に握手を求めてしまった程である。
「心の友よ!」ジャイアンか私は・・・・
サー・尚吾は酒にうるさい方だ、何度か論争になるくらい・・・
傍から見てると喧嘩にしか見えないかもしれないが、このような論争は至福の喜びである。
細かいところは違っても、基本的に好きな酒は同じであり。少々うるさ型だ。
彼とはよく、飲みながらトランプで賭けた。次の酒を賭けて
「俺の勝ちだ、明日のワインは卿の奢りだぞ」
「何の、もう一勝負だ」
勢いあまって予算以上の酒をおごる羽目になったことも、双方しばしばあった。
この3人でよくグラスを交わしたものだった。
太極拳や音楽をやっていた時間以上に貴重な時を過ごした友達である。
私の学生時代の酒遍歴は、このようにして磨かれていったのだ。
この記事にトラックバックする